ハーメルンの神様 #7 昔話

「昔、十九の頃だから……七十年近く前だ。船で海に出た時に、嵐に遭ってね。海に投げ出されたんだ。目が覚めたら、上等な寝台に横になっていてね。体は重いし、足を怪我して動けなかった。部屋の様子を窺っていると、戸が開いて、誰かが入ってきた――そりゃあもう、この世のものとは思えんような、女神様みたいな人が。……いや、あのお方は女神様だ、間違いない」

「女神様ですか」

 安東が熱心に話を聞いている。

「そう、きらきら光る薄い金色の髪、ビー玉みたいな緑の目。今でもはっきりと思い出せるよ。……そのお方がね、看病をしてくれて、暫くそこで過ごした。夢のような時間だったよ。歩けるようになると、家の外を案内してくれてね。その時初めて、そこが満島だと知った。青々とした木々に、いろんな花が咲いていて、楽園かと思ったよ。目が覚めて初めてそのお方――イズナ様を見た時、自分は死んだのかと思ったんだが、外に出て満島を見て回った時もまた、やっぱり自分は死んだのかと思った――あんまり美しいもんだからね。女神様がいる天国かと」

ハーメルンの神様 #6 絶海の孤島

 周囲の島よりはるかに小さく、離れた位置に一つだけポツンと存在する絶海の孤島、満島。

 個人所有の島らしく、定期船等はない。

「三宅島も御蔵島も、まさか満島の存在自体知らない人のほうが多数派だなんて……」

 神津島へ向かう船上で、安東は最近癖になった溜め息を吐く。

「無人島だと思っていた、とか……まあ、不法侵入してまで行こうとする大人はいないし、子供だけじゃ行けないだろうしな」

「今度は収穫があると良いんですけど……」

 神津島に到着し、早速聞き込みを始める。

 やはり島の存在を知っている人は少なく、知っていたとしても、人の土地らしい、島に向かう船は見たことがない等の証言ばかりであった。

 また、満島周辺はよく霧が発生するらしく、船で近くを通ることもないそうだ。

「――満島の話を聞いているっていうのは、君たちのことかね?」

 聞き込みを始めて数時間、一人の島民が声をかけてきた。八十代くらいの男性で、いかにも好々爺という感じだ。

 すぐ近くにあるという自宅に招かれ、縁側でお茶を頂く。

「……この話をするとね、昔だと夢を見ていたんだ、今だととうとうボケたか、なんて言われるもんだからね、あんまりしないようにしていたんだよ。でも、これも何かのご縁かもしれないから。――――あの島、満島はね、神様の島なんだ」

ハーメルンの神様 #5 小さな舟

 舟が発見されたのは四月二十日早朝。前日の夜までは、辺りには何もなかったそうだ。

 海岸付近にあるガソリンスタンドの防犯カメラに、舟らしきものが映り込んでいるのが辛うじて確認できた。映像では確かに、舟は沖の方から流れ着いていた。

 動力を持たない小さな舟は、風と潮流によって動くしかない。

「つまり、四月二十日から風向き、風速、潮流を逆算していけば、舟がどうやって海岸へ辿り着いたのか――どこから来たのかわかるはず……」

 署に戻り、遅い夕食を摂りながら今日得た情報をまとめる。

「なるほど」

 頷きつつ頭を抱える安東を横目に、モニターに映る地図をなぞる。

「――解析はもうしてもらってある。伊豆半島の南、緯度は三宅島の少し南にある御蔵島と同じくらいで……みつ、しま」

ハーメルンの神様 #4 異常

「……そうですね、ホルマリンによって死後変化は起きなくなります。ただ、これは死後使用すればその時点で死後変化が停止するということで、生体に使用すれば多臓器不全に繋がるほどのひどい炎症を起こすはずです。ご遺体は現時点でも、まさに今亡くなったかのような状態、それもついさっきまで何の問題もなく健康体であったかのような状態を保っています。――生きている人体をそのままの状態で死なせ、死後も生きていた時そのままの状態を持続させることは、現代の科学、医学では不可能です」

「死因となる異常はなく、死体としては異常、ってところですかね」

 一先ず伊崎と別れ捜査に向かうなか、安東がお手上げだと言うように溢す。何もわからないということがわかっただけだ。

 おかしな点は遺体の状態以外にもあった。

 失踪当日、会社の最寄り駅の防犯カメラを最後に、清水早雨の姿を確認できるものは何一つなかった。また、携帯電話の電源も駅周辺で切られており、以降の位置情報の取得は不可能であった。

 どうやって消えたのか。

 一ヶ月の間どこで何をしていたのか。

 どうやって死んだのか。

 舟はどこから来たのか。

「……舟、ね」

 溜め息交じりに吐き出すと、安東が困り顔のままこちらを見てきた。

ハーメルンの神様 #3 春でも凍える

「外傷がないということで、低体温症による凍死も考えたのですが――」

 解剖結果を聞きに来たところ、慎重そうに話を切り出された。

「もう春ですよ!?」

 安東が驚く。

「大して気温が低くなくても、二次的に起こる可能性があるんです。泥酔して屋外で寝ていた、とか。ですが、氷点下でもない状況で全く腐敗していない点、腎疾患があったわけでもないのに死後硬直も見られない点を考えると、凍死の可能性も限りなく低いですね。外傷もなく、持病も、これといった既往症もない。臓器等にも……ご遺体には、死因となりそうな異常がなかったんです。有り得ない話ですが、ただただ全ての機能が停止した、というように見えました。――少なくとも自然死、事故死でないことは確かでしょうね」

「じゃあ、薬物とか――」

「いえ、検査では薬物反応も、毒物反応も出ませんでした」

 手掛かりがないことを嘆く安東が絞り出した声は、丁寧な口調に阻まれた。

「ただただ全ての機能が停止……」

 呟くと、担当医――伊崎がこちらに視線を移した。

「ええ。……薬毒物についてはもう少し調べてみるつもりです。こちらも腐敗等がない点はやはりおかしいですが、少し気になるところがあるので」

 伊崎の曖昧な物言いに、ずっと頭の片隅にちらついていた、けれどその度に有り得ないことだと否定していた、気分の悪い疑問を口に出してみる。

「……例えば、生きていた状態そのままを保存することは可能ですか? ――――ホルマリン漬けのように」

ハーメルンの神様 #2 変死体漂着事件

 所持品が何もなかったにも関わらず、女性の身元はすぐに判明した。

 清水早雨――二十六歳、会社員であった。

 身元がすぐに判明した理由、それは捜索願が出されていたためである。

 職場では仕事も人間関係も問題なく、むしろ真面目な勤務態度とよく笑う穏やかな人柄が評判であった。プライベートでも、円満な家庭で実家暮らし、大勢というわけではないが仲の良い友人たちに囲まれ、充実した毎日を送っていたようだ。

 家出をするような要素は持ち合わせていない人物で、失踪当日もいつも通り出勤し、退勤後一向に帰宅しないということだった。そのため、何らかの事故や事件に巻き込まれたとして捜査されていたが、発見されないまま一ヶ月が経っていた。

「死因どころか、死亡推定時刻もわからないみたいです。直腸温からすると一日は経っているはずなのに、ほかの死体現象が見られないんです」

 現場で安東から新しい報告を聞くと、やはり少し変わった事件のようだ。

 ――持病はなく、外傷もない。

 突然死の可能性ももちろんあるが、遺体の状態が自然に作り出されたとは思えない。

 昨日今日の最高気温は二十度前後、最低気温は十二度。直腸温は十三度であり、通常で考えれば死後二十四時間以上は経過している。しかし、死後硬直はしておらず、かといって腐敗も始まっていないようだ。

 何より、漂流する舟の中で花に埋もれて死んでいるなど、尋常ではない。

 ――何重にも偶然が重なった事故か。

 ――計画的な自殺か。

 ――猟奇殺人か。

「傷一つないですからね。薬物か毒か……。それにしても体温だけ下がってほかはそのままなんて、どんなトリックなんでしょう。うーん、わからないですねぇ……」

 安東が隣で考え倦ねている。

「美しいものを、美しいままで――――サイコか?」

 こうして捜査が始まった東京湾変死体漂着事件は、後に満島事件として連日報道され、世間から関心を集めることになる。

ハーメルンの神様 #1 門出

 きらきら光る青が白く泡立って、象牙色の砂浜に引き寄せられていく。緑は生い繁り、色とりどりの花が太陽を見つめている。

 一葉の小舟が、島から旅立ったようだ。

「――――いつか休暇を貰えたら……あんなところでゆっくりしたいな」

 久しぶりの休日、惰眠を貪り幸せな目覚めを迎えると、窓からは夕陽が射し込んでいた。

 あっという間に夜になり、明日の仕事のためにまた眠りにつく。よくこんなに眠れるものだと、自分でも思う。

 翌日、目覚ましの音よりも聞き慣れた着信音で目を覚ました。発信者も確認せず電話に出ると、

「おはようございます、安東です。事件なんですが、少し不可解で――――」

 捜査一課の後輩、安東からであった。

 報告もそこそこに、現場へ向かうことにした。彼の口からは、凡そ常識では考え難い話が語られたためである。

 四月二十日、都内の海岸で小さな舟が発見された。その舟の中には、スイートピーが溢れんばかりに敷き詰められていた。

 そして、そのスイートピーに埋もれるように一人の女性が眠っていた。

 ――いや、眠っているように安らかな表情で、死んでいた。