《アンドロニカス》D-13

 ある日、一人の少女が屋敷の扉をノックした。

「――なんだ? 学生さん?」

 黒いセーラー服を着た彼女は、人形のように無表情だった。

「……人を探しているんです」

 ――門番はどうした? どうやって敷地内に入ってきた? 普通の女子高生に見えるが――

「友達が家出でもしたかい?」

「いえ。十年前に見た人を探しています」

「……はっ、うちは探偵じゃないんだ。どうしてここに来たのかは知らないが、してやれることは何もないよ」

 ドアを閉めようとした瞬間、ガッ! と音がした。その少女はドアの隙間に足を入れてきて、痛がる様子もなく口を開いた。

「いいえ。ありますよ」

 なかなか戻らないのを訝しんだらしい上司が広間から出てきた。目配せしたところ、「ひとまず話を聞こうか」と彼女は応接室に通された。彼女の後ろを歩きながら観察したが、どう見ても、どこにでもいる女子高生だった――やけに整った顔をしていることと、無表情を崩さないこと、淡々とした態度に異質さを感じたものの、それでもこの屋敷に縁があるような人間には見えなかった。

 ローテーブルを挟んでソファに座った二人を、壁に背をあずけ立ったまま眺める。

「――人を探してるんだって?」

 上司が彼女に話しかける。

「はい」

「私たちに、手助けできることがあると」

「そうです」

「……随分、肝の据わったお嬢さんだね」

「……」

 柔和な圧にも、怯んでいないようだ。

「私たちが知っている人物、ということかな?」

「そうですね。とてもよく、知っているでしょう。――――カロン、という男のこと」

「……!」

 部屋には、張り詰めた空気が流れた。

 自分でも、知っている。というか、知らない人間はいないだろう。こっちの世界では。

「――なるほど。よく知ってるよ。でも、君はなぜ知っているのかな? そして、どうやって私たちのことを知ったのか……気になるなぁ」

「ずっと……ずっと探していたんです――十年前から」

「……十年ね……お嬢さん、高校生だろう? そんな子供のころにカロンの存在を知ったなんて、興味深いね」

 そう言いながらソファから背中を離し、組んだ手に顎を乗せた。

「――――十年前のクリスマス……カロンは、ある家を襲撃しました」

「クリスマス……?」

 記憶をたどるように考え込んだ上司は、しばらくして何か思い当たったらしい。

「――あ、あの事件か! クリスマスなのに、って世間では気の毒がられてたな。そしたら捜査が進むうちに、慈善家で通ってた夫婦に実は裏があったって、ひと騒ぎ……まさか、いや、あの夫婦の一人娘がたしか――成長していれば、ちょうど君くらいの年齢だったかな」

 どこか嬉しそうな表情で彼女を見る。

「……ええ。ちょうど私くらいの」

「年も年だし、娘についての情報は特に出まわってなかったと思うけど……少なくともその事件での死亡者は、二人だけだったはずだ」

「その通りです。でも、八歳は案外、記憶も思考もしっかりしているものですよ。それに、情報が公表されていなかったとしても、どこかからは漏れてしまう」

「そう……いろいろ大変だったんだね」

 その目には、同情より享楽のほうが濃く滲んでいるように見えた。

 彼女は、訪れたときと変わらない人形のような無表情のまま、屋敷をあとにした。

「……よかったんですか? 居場所教えちゃって」

「教えたのは居場所だけだよ、うちのことは口外しないって約束もしてもらったしね。まあ、もしばれたとしても問題ないでしょ。カロンのことを狙ってる組織や人間は大勢いるし、うちからも何人か今までに仕掛けてるし。あのお嬢さんが本人なのか、近い人間なのか、自分でやるのか、誰かを雇うのか――私たちにはどうでもいいことだよ。復讐が成功すればラッキー、失敗しても現状維持だ」

《サンクチュアリ》D-Day

「――本当に……今日、やるのか?」

「そうですよ。だって、あなたはカロンでしょう? 名前は、ですけど」

「死神じゃないか……カロンは、コードネームだ。――――名前は……ダート」

「――ダート……そう、ダートさん」

 腹の中で、蝶が羽ばたいている。

「ダートさん。私の願いを叶えてください……あなたにしか、叶えられないんです」

 冬にしては暖かな昼下がり。屋上に出ると、薄く満月が見えた。

「カナン……ここに」

 白いコンクリートに膝をつき、彼女を呼ぶ。

 黒猫のように軽やかな足取りで、しかしゆったりと、こちらに歩いてくる。

 仰向けに寝そべった彼女の肌は白く、真っ黒な髪と目とセーラー服、赤い唇だけが浮きあがって見える。

 祈るように目を閉じた彼女は、小さく呟いた。

「カロンは、渡し守じゃなくて星のことだったんですね」

 目を開けた彼女と、視線がぶつかる。

 心なんてものを持っていない自分には、彼女がなぜ殺されたいのか、どんなに考えてもわからなかった。できるのは、彼女の願いを叶えることだけ。

「――カナン」

 痛みも、苦しみも、辛さも、怖さもない、死を。

「ダートさん、ありがとう」

 彼女を手にかけた。

 だんだん冷たくなっていく彼女の手を握りながら、どれくらい経ったのか――空は暗く、星が瞬いていた。

 雲が流れ、満月の光が彼女を照らした。

 幸せそうに微笑む彼女。願いが叶うと、人はこんな表情になるのか。

 身体の真ん中にぽっかりと穴が空いている気がして、その穴に弾丸を撃ち込んでみる。

 ぼんやりと霞んでいく視界のなか、彼女を抱き締めると、冷たいはずなのに温かかった。

 ――彼女もこんな気持ちだったのだろうか。

 このまま彼女のそばで眠りたい。

《サンクチュアリ》D-1

 昨日、あのあと何を聞いてもはぐらかされてしまい、よくわからないままだった。死ぬことと殺されることは、どう違うのか。なぜ自分なんかを救世主と呼んだのか。救世主? ――ありえない。

 コンクリートの天井のシミを見つめながら考えていると、彼女がベッドに近づいてきた。まだ午前中なのに、珍しく起きたらしい。

 ――いや、珍しいのは自分か。近づいてきたことに、気づいた。起きた気配には、まったく気づかなかった。

 彼女の様子をうかがうと、いつも通りに戻ったようだ。自由で気まぐれな、やわらかい黒猫。

 シーツに彼女の影が落ちたとき、いつも通りの声で彼女は言った。

「明日、私を殺してくださいね」

「――――明日? どうして、突然……」

「突然なんかじゃないですよ。最初から言ってるじゃないですか、殺してほしいって。もう何日も経ってるのに、全然話を進めてくれないですし」

「それは――」

「報酬はもう口座振込しましたよ。いくらか教えてもらえてなかったので、私の全財産です。残しても意味ないですから。――だから、明日殺してくださいね」

「……俺は、救世主なんかじゃない。悪魔か、死神か……今まで何千人も殺してきたんだ。そのことを、なんとも思っていない」

「いいえ。何千人、何万人殺していたとしても、たとえ心がなかったとしても――私にとっては、あなたが救世主です」

 彼女は笑っていた。

 考えがまとまらないまま、頭の中とは反対に穏やかな午後を過ごして、仕事に出かける。

「いってらっしゃい。気をつけてくださいね」

 もし、明日彼女を殺すのなら。この言葉を聞くのはこれが最後になるのだろうか。

 今日は月が明るく、いつもより慎重になっていた。にもかかわらず、仕事中もずっと彼女のことを考えていた。

 ターゲットは今日もいつもと同じ――彼女が同じように『殺さないで』と言ったら、自分は同じようにするのだろうか。

 宵待月の光から隠れて歩く。

「おかえりなさい。怪我してないですか?」

「……た……だ、いま。怪我は、してない」

 彼女は大きな目をさらに大きくし、まばたきをした。

「……よかった」

 小さな声が聞こえたが、落ち着かなくなって彼女の顔から目をそらしたため、どんな表情だったのかはわからなかった。

「おやすみなさい」

「ああ……おやすみ」

 胃の入口あたりが震えた。声まで震えてはいなかっただろうか?

《サンクチュアリ》D-2

 日当たりのいい窓際に置かれたソファで眠る彼女は、日向ぼっこをする黒猫のようだ。

 自分も怠惰な生活をしていると思うが、睡眠に関しては彼女のほうが貪欲かもしれない。――そろそろ起きるころだろうか。

 コーヒーを淹れていると、彼女が目をこすりながら歩いてきた。

「おはようございます」

「……ああ」

 ついでに淹れたもうひとつのコーヒーと、自分の朝食の余りをよそったプレートを、席についた彼女に差し出す。

「わぁ……おいしそう! ありがとうございます」

「別に。ついでだ」

 目線を合わせず呟くと、彼女はふふっと笑みをこぼし「いただきます」と食べはじめた。

「……カナン。なぜ、死にたいんだ?」

 ゆっくりと食事する彼女の皿が空になったころ、その名前を口にしてみた。

 喉の奥がぞくりとした。

 彼女はこちらに視線を移し、大きな目をぱちぱちとさせたあと、表情を消して数秒沈黙した。焦点の合わなくなった瞳は、暗い海に沈んでいく黒い夕日のようだった。

「……死にたいんじゃなくて、殺されたいんです。あなたに」

「死ぬのと殺されるのは、同じじゃないか……?」

「ちがいますよ」

 彼女は静かに笑って言った。

「……じゃあ、どうして殺されたいんだ?」

「――――あなたが、救世主だから」

《サンクチュアリ》D-3

 昨日も結局、どんなふうに殺してほしいとか、予算はいくらでとか、一方的に挙げられる要望を聞いているだけになってしまった。

 相手にせず追い出してしまえばいいのに。それとも、本人が望んでいるのだからさっさと殺してしまえばいいのに。

「いってらっしゃい」

 やっぱり、心臓のあたりがざわざわする。

 ……そういえば、彼女はなぜ殺されたいのだろうか。

 仕事に向かうなか、ふと思った。

 夕日が沈みきったのを合図に、ターゲットに近づいていく。

「ひっ……! た、助け、ころさな――」

 いつもと、同じ。

 いつもと違うのは、仕事終わりの夕食を誰かと一緒に食べることくらいだろうか。

「――おかえりなさい」

 ドアを開けると、彼女が微笑んだ。

 急に、鳩尾から喉にかけて、何かがふわふわと駆け抜けていったような気がした。

《サンクチュアリ》D-4

 あまり眠れなかった。

 ベッドに横になったまま、昨日のことを思い出す。

 仕事中も気になって集中できなかった。だからといってヘマはしなかったが、帰るのが予定より遅くなってしまった。

 帰ったときには彼女はすでに眠ってしまっていて――今もソファで静かに寝息をたてている。何時間寝るんだ……? ――話の続きはできていない。

 気になっていたこと――――わからないことだ。

 何が気になっているのか、わからない。わからない感情。気分。気持ち。……いや、自分にはそんなものなんてない。持っていない。……でも、心臓がむずむずする。

 彼女の言葉を聞いてからだ。はじめて言われた言葉。

 ――そうだ。

『こいつを殺してほしい』

『どうか殺さないでくれ』

 いつも、誰かを殺せ、自分を殺すな、そう言われてきた。

 自分を殺してほしいと言われたのは、はじめてだった。

「――おはよう、ござい、ます」

 納得がいったところで、彼女が目を覚ました。

 もう昼だが。

「ごめんなさい。起きていようと思ってたんですけど……」

 よく寝るなと思って、ただぼうっと見ていただけなのだが、起きて待っていなかったことを咎められていると思ったらしい。

「いや、帰ってくるのが遅かったし、別に待っていろとまでは言っていない」

 そう言うと、彼女は少し困ったような表情で笑った。

「……怪我とかしてないですか?」

「ああ」

「そうですよね。カロンさん、すごく強いし」

「……どうして、知っている? 名前も、何をしているかも、居場所も、強いかどうかも」

 疑問を口にすると、嬉しそうに言い放った。

「秘密です」

 ……は?

「どうして知っているかは秘密ですけど、どうしてカロンさんを探していたか、なら言えますよ。――私、嫌なんです。痛いのも、苦しいのも、辛いのも、怖いのも。だから、殺してもらうならカロンさんがいいなって」

「……はぁ」

「私の依頼は、痛みも苦しみも辛さも怖さも与えずに私を殺してもらうことです」

《サンクチュアリ》D-5

 真っ黒なロングヘア、真っ黒な瞳の彼女は、気ままな黒猫のように勝手に棲みついた。

 昼過ぎに朝食をとりながら、彼女の視線に気づかないふりをする。

「カロンさん。今日はお仕事ですか?」

 とうとう話しかけてきた。

 名乗ってもいない名前を知られていても、驚きはしない。自分が何をしているのか、知っていてここに来たのだろうから。疑問だったのは、普通の少女がなぜそれらを知っていたのか、そしてその目的だ。

 返事を待つことを諦めたのか、また話しはじめる。

「私のこと、何も聞かないんですね。追い出しもしないし。だから――――…もう。いいです。私、カナンっていいます。今年の三月で高校卒業なんですけど、卒業前にどうしても叶えたいことがあって。それで、カロンさんに会いに来ました」

 薄っすらと赤い唇を尖らせながら不満気にしていたかと思うと、きらきらと瞳を輝かせてこちらを見つめてきた。

「……どうしろって……」

「言ったじゃないですか。殺害依頼です、私の。」

「いや――」

「契約金として前払い半分、成功報酬として後払い半分、ですよね。私の場合後払いはできないから、全額前払いで――おいくらですか?」

「いや、ちょっと……待ってくれ」

 これが女子高生の勢いなのか……? 普段接しない人種への対応に、少し目眩がした。

「……これから仕事だから。続きは帰ってきてから」

 まだ何か言いたそうにしていたものの、大人しく引き下がってくれた。

 準備を済ませ出かけようとドアに向かっていると、後ろに気配を感じて振り返る。ここには自分と彼女の二人しかいないのだから、気配の正体は当然、彼女だ。

 何か用か、と口を開こうとしたが、彼女のほうが早かった。

「いってらっしゃい。気をつけてくださいね」

ハーメルンの神様 #19 神様の名前

「部屋が余っているので、夜はこの家に泊まってください。……あぁ、申し遅れました、私のことはミチナガと呼んでくださいね。一先ず、その機械に強い子のところに行ってみましょう。道すがら島をご案内します」

 家を出て、彼の後を少し距離を取って歩く。

「同じ人間とは思えませんね……! 中性的とはまた違って……あんなに綺麗な人、初めて見ました! 見た目が良いと、性格も良くなるんですかねぇ」

 前を行く彼がゆったりと優雅に歩いているのは、単に所作が落ち着いているだけなのではなく、その長い脚から生み出される歩幅によるところも大きいようだ。

 身長は一八〇センチメートル後半で、体格も良い。中性的というよりむしろ男性的というほうが表現として正しいはずだが、造形美のせいか、纏う雰囲気によるものなのか、敢えて外見上の性別で彼を形容するならば、優美な彫刻のような男性というのが最もそれらしいのではないだろうか。

 興奮しながらも小声で話しかけてくる安東に、さらに小声で返す。

「……気を抜くなよ、あの男、恐らくこの島の所有者だ。――鵬園道長、三十六歳で何か事業をやっている資産家らしいが、詳しいことは調べても出てこなかった」

「ほうえん……本名を隠すつもりはないみたいですけど、普通は苗字のほうを名乗りますよね? 何か意図があるんでしょうか?」

「さぁ……どうかな」

ハーメルンの神様 #18 ミルメコレオ

「戻っていて構わないよ」

 柔らかく響く穏やかなバリトン――少年にかけられた、その声すら美しかった。

 宝石のような少年の瞳は美しい人を映し、視線だけで返答すると静かに出て行った。

 テーブルに着くよう促され、おずおずと座る。

 慣れた手つきで淹れた紅茶を差し出してきた彼は、無駄のない流れるような動作で向かいに座った。

「――――遭難、ですか」

「はい、故障の原因もわからなくて、途方に暮れていたところでした。運良くこの島に流れ着いて……」

 それらしく答えておく。

 少し考えるような素振りを見せた後、柔和な、しかし憂いを湛えた顔つきで、彼が口を開いた。

「この辺りは電波状況が悪くて、携帯電話はほぼ使えませんし、無線も繋がったり繋がらなかったりで。救援を呼ぶより、島にある船でお送りしたほうが早いかと思うのですが……もし、お急ぎでなければ」

 と言ったところで笑みを深め、続けた。

「少しの間、島でゆっくりしていかれてはいかがでしょう? 機械に詳しい子がいるので、ボートを直せるかもしれません」

「……! 特に急いではいないので、そうさせていただけると助かります」

 思いがけない提案に、内心怪しみながらも肯く。