昨日、あのあと何を聞いてもはぐらかされてしまい、よくわからないままだった。死ぬことと殺されることは、どう違うのか。なぜ自分なんかを救世主と呼んだのか。救世主? ――ありえない。
コンクリートの天井のシミを見つめながら考えていると、彼女がベッドに近づいてきた。まだ午前中なのに、珍しく起きたらしい。
――いや、珍しいのは自分か。近づいてきたことに、気づいた。起きた気配には、まったく気づかなかった。
彼女の様子をうかがうと、いつも通りに戻ったようだ。自由で気まぐれな、やわらかい黒猫。
シーツに彼女の影が落ちたとき、いつも通りの声で彼女は言った。
「明日、私を殺してくださいね」
「――――明日? どうして、突然……」
「突然なんかじゃないですよ。最初から言ってるじゃないですか、殺してほしいって。もう何日も経ってるのに、全然話を進めてくれないですし」
「それは――」
「報酬はもう口座振込しましたよ。いくらか教えてもらえてなかったので、私の全財産です。残しても意味ないですから。――だから、明日殺してくださいね」
「……俺は、救世主なんかじゃない。悪魔か、死神か……今まで何千人も殺してきたんだ。そのことを、なんとも思っていない」
「いいえ。何千人、何万人殺していたとしても、たとえ心がなかったとしても――私にとっては、あなたが救世主です」
彼女は笑っていた。
考えがまとまらないまま、頭の中とは反対に穏やかな午後を過ごして、仕事に出かける。
「いってらっしゃい。気をつけてくださいね」
もし、明日彼女を殺すのなら。この言葉を聞くのはこれが最後になるのだろうか。
今日は月が明るく、いつもより慎重になっていた。にもかかわらず、仕事中もずっと彼女のことを考えていた。
ターゲットは今日もいつもと同じ――彼女が同じように『殺さないで』と言ったら、自分は同じようにするのだろうか。
宵待月の光から隠れて歩く。
「おかえりなさい。怪我してないですか?」
「……た……だ、いま。怪我は、してない」
彼女は大きな目をさらに大きくし、まばたきをした。
「……よかった」
小さな声が聞こえたが、落ち着かなくなって彼女の顔から目をそらしたため、どんな表情だったのかはわからなかった。
「おやすみなさい」
「ああ……おやすみ」
胃の入口あたりが震えた。声まで震えてはいなかっただろうか?