D-1

 夢か、記憶か。何かにうなされるような不快感。

 暗い海にもぐると、幼い自分が見えた。

 きれいなドレスを着せられ、愛想よく、正しいマナーで振舞う。愛される一人娘を演じることを強いられ、ミスをすればお仕置きだった。

 数日食事を与えてもらえなかったり、痕が見えない場所や、痣が長引かない程度に殴打されたりもした。夏休みや冬休みが怖ろしかった。風邪なんて引いてないのに病欠の電話をする母が怖ろしかった。誰も気づいてくれない大人が怖ろしかった。幸せそうな子供たちが怖ろしかった。自分の人生が怖ろしかった。

 あの日、振り返った黒い影と目が合ったとき。

 自分も殺される、と思った。それでいいと思った。それなのに、狼みたいな黒い影は、私を殺さず出て行った。

 二人の悪魔がいなくなったあと、引き取られた先ではじめての生活を送った。毎日出される食事、叩かれることのない、叱られることのない日々。でも、それも一ヶ月と続かなかった。

 どうして狼は私を殺してくれなかったんだろう。どうして私を一緒に連れて行ってくれなかったんだろう。

 ……自分は頭がおかしいのだろうか。

 愛する救世主に殺されることを願いながら、同時に彼を恨んでいる。

 それなのに、やっと見つけた彼のそばは心地よくて、穏やかな時間がこのまま続けばいいと思ってしまった。

 ベッドで寝ている彼に近づく。

「明日、私を殺してくださいね」

 彼がたじろぐ。構わずに、報酬も払ったことを告げて念押しする。

「……俺は、救世主なんかじゃない。悪魔か、死神か……今まで何千人も殺してきたんだ。そのことを、何とも思っていない」

 彼の瞳が揺れた。

「いいえ。何千人、何万人殺していたとしても、たとえ心がなかったとしても――私にとっては、あなたが救世主です」

 悪魔だなんて、死神だなんて――私を殺すことをためらっているあなたに、心がないなんて、そんなはずないのに。

「おかえりなさい。怪我してないですか?」

 仕事から帰ってきた彼に声をかける。義務ではなく、言いたくて口にする言葉。

「……た……だ、いま。怪我は、してない」

 まさか返事――いつも『ああ』とは言ってくれていたけれど――をもらえるとは思っていなかった。驚きと嬉しさで胸がいっぱいになって、温かさが頬を溶かす。

「おやすみなさい」

「ああ……おやすみ」

 明日が最後だからって、プレゼントだろうか。

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